| 岩瀬敬吾プロフィール |
岩瀬敬吾(いわせ けいご) 1978年8月29日生のおとめ座。 血液型不明。広島県黒瀬町出身。 169cm,55kg 靴のサイズ=27cm 好きな食べ物→牛丼 嫌いな食べ物→貝類(広島名産カキはOK) 趣味→フィギュア集め、間取り図を眺めること ☆ケイゴ理想の間取り ・玄関のかまちの高さが30cm (座りながら靴を履けるから) ・お風呂(追い炊き可)とトイレは別 ・LDkで和室6畳 ・日当たり良好 Vo,G,作詞・作曲 |
| おいたち |
生まれたときの体重は3200g。逆子だった。珍しい事にあまり泣かない赤ちゃんで、 「うちの姉ちゃんが泣かそうとして叩いたら泣き出して、 やばいと思って口をふさいだら呼吸が止まって死にそうになった。 姉ちゃんに殺されそうになったんですよ、いきなり(笑)。」 中黒瀬保育所に通う。 絵を描いたり歌を歌ったり。のぞきもした。 小学校の頃はいつも日焼けしている元気な子。算数が得意で社会が嫌い。 いたずらっ子だったが、静かに絵を描くのも好きだった。 小学5年生のときにスポーツ少年団に入ってサッカーをした。 家に帰ってきて、アンドーナツを食べるのが幸せだった。 子供の頃の夢は、サッカー選手になることだった。好きな選手は小野。しかしずっと補欠だった。 中学1年生で初恋に目覚める。それから3年間、告白できずじまいだった。 中学2年生まで新聞配達のバイトをし、貯めたお金でコンポを買う。 初めて買ったCDはCHAGE&ASKAの「SAY YES」。他にもTMネットワークが好きだった。 初めてのライブは、森高千里のライブ。 高校生(機械科)になった頃には、少し明るくなっていた。 親友と呼べる友達もできたし、彼女もできた。 3年間と東京でも半年、コンビニでバイトをした。 |
| けんじとケイゴの出会い |
| 高校3年の夏に行なわれた「ティーンズ・ミュージック・フェスティバル」という 大きなコンテストの広島地方予選の楽屋でケンジと出会う。 この時ケイゴはBAKUのコピーバンドのボーカルとして出ていた。 しかしこのバンドは、ただのお手伝いという感じで参加していただけで、 ケイゴ自身は自分でギターを弾いて、曲を作って歌うということに、ちょうどハマリ出した時期だった。 当時地元ではかなり有名だったケンジに自分から話しかけて、お近づきになった。 ケイゴ「いろいろ友達からもいい奴っていうのは聞いてたし。初めて見た時、 あ、おとなしそうな人だなって…偽ってたらしいですけど(笑)。 で、その場で歌ったんです僕、ギター持って。イベントの前に」 ケイゴはそこでけんじのギターを借りて「君の声」という曲を歌った。 (この曲はオリジナル2曲目で、1曲目は「太陽の下LOVE YOU」) ※BAKU…1990年ポリスターからメジャーデビュー、92年に解散。 その後、ギターの車谷浩司は96年にAIRとしてデビュー。326とはお友達関係にある。 |
| 少年フレンド結成 |
ケイゴが地元の駅のロータリーで、ストリートライブをしようとけんじを誘う。 最初はケンジは一曲やって帰るという感じだったが、 次第にケンジといる時間が長くなって「いっしょにやろう。」とけんじが言った。 そして二人はストリート・ライブの場所を呉の中央公園というところに変えていった。 その頃二人でやった曲は『明日を夢見て歩こう』・『卒業ライフ』。 そして二人はバンドを“少年フレンド”と名づけた。 高校生活も終わりに近づいてきた2月に、二人はあるコンテストに出場、 『明日を夢見て歩こう』を歌い、見事優秀賞を獲得。 |
ケイゴはけんじと出会う前から決めていた、 東京の音楽専門学校に進学(97年3月28日;けんじの19歳の誕生日)。 ケイゴが上京する前の日、二人は一緒に過ごした。見送りには行かない、 と決めていたけんじがケイゴの家に来て、明け方まで話していた。 けんじは、「明日を夢見て歩こう」を歌って、 コンテストで獲得した優秀賞のタテと井上陽水のアルバム『氷の世界』を渡した。 これにはケイゴも感激して、泣き出してしまったという。 |
| 一人ぼっちの東京 |
東京に着いて、すぐにケイゴは空気がまずくて、誰もがせわしなく、 落ち着かないのに気がついた。肌に合わない街だと思った。 部屋の中も最初はCDもラジカセもなく、けっこう寂しい東京生活だった。 離れ離れになった二人は曲などを電話でやり取りし、 電話代は月6万円を超えたというエピソードも。 そして、ケイゴは上京して1ヶ月が過ぎた4月頃、 ケンジは突然「オレ、大阪に行くんじゃ。」と言い残して、消息を絶つ(笑)。 ケイゴはけんじの実家にも電話したが、実はけんじの両親は 息子の音楽活動に反対していたので、居場所を教えてもらえなかった。 本当に一人ぼっちになってしまったような気がしていた。 |
期待に胸を膨らませていた音楽学校でも、 先生に曲や詩を『ぜんぜん良くない。』と酷評されていた。 「『詞の書き方も変だし、そのメロディだと全然いい曲じゃないよ』って言われて… でも一人だけすごく誉めてくれる先生がいたんですよ。 『おれはおまえの書く曲はおまえの声によく合ってる』って言ってくれて。それが救いでしたね。」 この時のひとり暮しの辛い気持ちを歌ったのが『ビルはほど遠い街』。 そしてある日、けんじから「何で連絡くれんのじゃ」と電話があったときには、 さすがにズッコケてしまった。 |
| 少年フレンド再び |
8月29日、ケイゴ19歳の誕生日に、けんじは上京した。 けんじはプロになるつもりだったし、少年フレンドの相方はケイゴしかいないと思っていた。 しかしケイゴは素直に「うん」と返せないでいた。 いくつものコンテストで入賞した実績があり、レコード会社からも注目されていたケンジのことや、 音楽学校での酷評を考えると、 自分は音楽に向いていないのではないのか? ケンジにとって本当に自分は必要なのか?と考えこんでしまう時もあった。 しかしけんじやレコード会社の人たちの温かい支援もあって、 再び少年フレンドは活動することになった。98年3月ごろのこと。 |
二人で新宿コマ劇場前でのストリートライブ、下北沢や原宿のライブハウスでの活動を精力的に行う。 ライブのチラシを配ったりもした。全国を周り、インストアライブなども行うようになる。 けんじによると「チラシを渡そうとしても、受取拒否されてオレ凹んじゃってね。 道端に座り込みながら、タバコ吸っとったんよ。 全部で100枚くらいあったんだけど、そのうち95枚はケイゴが配って、 俺は5枚くらいしか配れんかった(苦笑)。」 |
| 326(ナカムラミツル)との出会い |
その頃もうすでに326は有名アーティストとなっていた。 その一方で音楽が大好きな326は、事務所からの誘いもあり、 やがて自信がメンバーとして一緒にやれる仲間を探していた。 ケイゴは326に会う前から326の作品を見知っていた。 友達からもらった326のイラスト・ハガキに書いてあった言葉は 『人生っていう、カセットテープはツメが、折れない。 チョットしたミスでも大切なデータ(気持ち)はすぐに消えちまう』。 そんな中、326は少年フレンドの音を気に入って、ライブを見に行った。 けんじも326が来ていることが気になり、まだ326の顔も知らないのに、 「あれって326かな?」と見当を付けて、 客席の一人に会釈をした。そのけんじの第6感はみごとに当っていて、 それは本当に326だったという。 その後の打ち上げに326も参加し、意気投合。『仲良くなろうよ。』 ケンジ談『言葉に対する思い入れが、すごく強くて。何より、日本語を大切にしているから。 半分以上、必然性のない英語で埋めているような詞を書く輩が多い中(笑)、 これはホンモンだと思って』。 |
| 19の始動 |
本格的に活動を始めたのが19歳で、その頃の気持ちを忘れないようにと願いを込めて。 それと音楽のジュークボックスをかけて、 "イラストライター"+"ネオ・フォークデュオ"という異色の 組み合わせのユニットに『19(ジューク)』と名づけた。 (また偶然にも敬吾・健治の画数が19画だったりした) |
1998年11月21日、19結成からわずか8ヶ月でデビュー。 「あの青をこえて/西暦前進2000年→」 2000年7月リリースの「水・陸・そら、無限大」はシドニーオリンピック公式テーマソングに。 1999年、2000年には紅白歌合戦に出場した。 |
3年間の活動中、9枚のシングル、3枚のアルバムをリリース。 1999年、2000年には紅白歌合戦にも出場した。 2002年3月31日をもって、デビューから3年余りで惜しまれながらも「前向き。」に解散。 |
| "岩瀬敬吾"でソロデビュー |
2002年 6月28日にソロ活動を宣言。 日本とロンドンでレコーディングを敢行し、 10月23日シングル「くり返すは口ぐせと罪悪感」でソロデビュー。 11月6日にファースト・ソロアルバム「Porkey Pie」をリリース。 2002年11月15日から2003年1月5日の追加公演まで、ファーストソロツアーを敢行。 |
| 2003年 2月26日、セカンドシングル「ドライブカー」をリリース。 |
参考:「19&326癒しの世界」 Mr.ベースマン 衆芸社 2000年